コンテクスト・シンキング

コンテクスト思考で課題解決!

超論理的思考方法“コンテクスト・シンキング”

あはは。私が提唱している“コンテクスト・シンキング”を、超論理的思考方法として、勝手に説明してみようかと思う。

 

そもそも“超”と“超”のつかない論理的思考方法の違いは何か、ということを最初に定義しておかないといけないが、その前に白状しないといけないが、僕はこの思考方法を誰かに教わったのではない、ということ。いろいろな失敗や体験を通して体得してきた論理的思考方法なのだ。

教わった人と体得した人の違いは、説明に現れる。教わった人の説明は、ある事実を懸命に言い換えるだけでしかないが、体得した人の説明は、相手の思考方法の状態によって説明のスタートを合わせることが出来る。どういう状態なのか手に取るようにわかるので、届く言葉と届かない言葉の判断が出来るのは大きいのだ。

で、何が“超”かというと、論理的思考は基本的に“正しいこと”をゴールに設定した論理展開が行なわれるが、“超”が付くと、感情を共存させた論理展開を行なうのだ。

 

感情の存在なしに論理を語る勿れ、とは、私の言葉(笑。

 

超論理的思考方法の場合、感情のケアを一番最初に行うことになる。

考えてみたら簡単なことで、正しいことをゴールに論理的に話して行っても、感情で否定されてしまうことがあるなら、感情を先にケアした方が良い。それが出来ない場合は、いくら正しいことでも取り組まない、という選択をする方が良い。そもそも、感情で断られるかもしれないリスクをそのままにして、物事を進めること自体が、論理的ではない。

 

感情のケアのためには、文脈を大切にしたリサーチやプラインニングやアクションが大切。感情に論理で向かって行ったら、ケアなんて出来ない。だからこそ3つのステップが大切で、それをプログラムに取り込んでいるコンテクスト・シンキングは、論理的思考方法を超えた“超”論理的思考方法と言えるのではないかと考えた次第。

 

この思考方法を型として、提供できないかと考えている。この型はあらゆるものに応用できるのも大きな特徴だ。詳しくは“コンテクスト・シンキングについて”と記載の上、<こちら>へ問合せて頂きたい。

 

 

間違った目的は全てを壊す。

共感というキーワードを入れた記事を書くと、検索サイトから来られている方も少なからずいるんだな、と感心しているのですが、“共感を得たい”という目的は諸刃の剣だったりするので、扱いには注意が必要です。

  

例えばAさんが、会議で皆の共感が得られないとします。

で、共感を得るにはどうしたら良いのだろう、と考えるようになります。

でも、実際には、会議での発言や意見を受け入れて欲しい、というのが目的であり、共感はその手段でしかないわけです。ドリルを買う人は穴が欲しい、というアレです。

 

つまりは、“共感を得られる話し方”は、共感を得るための手段なので、目的ではありません。目的は会議での発言によって皆に同意を得ることなので、共感は目的ではなく、効果なのです。

 

これも文脈に着目して1つ1つ丁寧に考え抜いていけば、簡単に気づくことではあるのですが、目的と効果を切り分けないと、あとあと取り返すのに大変な状況へと自分自身を追い込んでしまう可能性があるので、行動の前に、目的と効果を整理しておきたいものです。

「ジョブラボぐんま」始めました。

最近では、ジョブラボぐんまの活動が活発になっています。

 

2017年の3月にスタートしたジョブラボぐんまは、起業や創業やビジネスの支援を行うプラットフォームになることを目指した活動です。イベント等の実施もしながら、起業支援のための相談にも乗っています。

 

私自身のコンサルタントスキルは、ある企業さんの協力で、醸成できました。
その会社は製造業で、特定の会社からの受注しかなく、納品もその一カ所というところです。このような構造の中で売上をどう増やすか?を目標に、広報誌作成の提案をしました。そして、現在もその活動は続いており、新しい仕事を受託したりということが起きています。

もちろん、そこに至までに半年ほどかかっています。そこに至までに、皆が頑張って売上が上がるとどうなるか?ということを共有し、皆さんの意識を少しだけ改革したら、その火種が社内でずっと火をともすようになりました。

 

コンテクスト・シンキングという思考方法は、実践の中からカタチにしてきたものです。論理的思考方法によって導かれる論理的な答えは正しくも受け入れられないことがあることを知り、感情で物事を決めている人が多いことに気づいたことがきっかけです。論理と感情は、車の両輪みたいなもので、物事を動かすために人を動かすには、この二つにどのようにアプローチするかがカギとなります。この2つが共存することが出来たら、正しい行動を気持ち良く行えます。

 

ジョブラボぐんまの相談業務は、当面無料、または、公的な仕組みの活用により、無料で実施します。数十万円の価値があると言ってくださる方もいますが、どうなのでしょう。お客さまも、お金をしっかり支払った方が一生懸命やるのはわかっているのですが、「お金払ったのだからしっかりやる」という人が苦手です。

 

みんなが良くなる為に自分が持っているスキルをプラットフォームに提供する、というのが、プラットフォーム構築の思想なので、私が儲かる仕組み自体に抵抗があるのかもしれません。

 

起業や創業だけでなく、個人事業種、経営者の方も、joblab@fmkiryu.jpまでご相談ください。3時間ほど頂けますとだいたいの課題が見えるので、それをどう解決していくか?についての選択肢をご提案致します。

 

それでは、良いお年を!

地域メディアの「お悔やみ欄」について真剣に考えたことがあるか?

地域メディアに関わると必ずお悔やみ欄の存在を知ることになるわけですが、これって何なんだろうなーと思っております。よくよく考えてみたいと思います。

 

よく聞くのは、「不義理がないようにお悔やみ欄は見る」というコメント。
生前お世話になった方に対してお礼を言いたいとか、お別れをしたい、とかそういう人はたくさん居ると思います。そうですね。そのためには亡くなられたことを知る必要があるわけです。そうなるとお悔やみ欄は見られるようになります。

 

自分が死んだことを考えてみると、仮にお世話をした人が葬式に来なかったとしてそれを不義理だとは思わない。残された人たちで楽しく暮らして行けば良いと思う。

 

家族が死んだことを考えてみると、そもそも誰とどんな関係だったかはよくわからないので、不義理とかも良くわからない。

 

友達が死んだことを考えてみると、お別れは言いたい。同級生名簿で回ってくることが多い。今はFBとかあるから便利。

 

お世話になった方が亡くなったことを考えてみると、お葬式に出る、お通夜に出ることも大切かもしれないけど、亡くなった方へ想いを寄せることは大いに有るし、ふとしたときに思い出したりしたいので写真とかあると良いかなとか思ったりする。

 

こうやって考えてみると、不義理ってよくわからなかったのだが、そもそもみんなが見ているメディアにお悔やみ情報が掲載されていて、それを知らずにいたら、周囲は「あいつは不義理だな」と思うかもしれないと思うに至った。

つまりは、地域メディアがお悔やみを扱うから、故人と関係のあった周囲の人から、あいつは不義理だ、みたいなことが言われるのではないか?、という独り相撲状態であることに気づいた。

 

ということは、地域メディアは「お悔やみを扱うことで不義理を生み出している」ということになる。それなのに、「不義理をしたくない人がお悔やみ欄を見る」と言っていることになり、この無限ループみたいな状態が非常に興味深い。そして、この内向きのループがムラ社会を作るきっかけになるのではないかと思うに至った。

 

論理の未来、感情の未来。

今朝、こんなニュースが流れて来た。

 

japan.cnet.com

 

囲碁は論理で勝敗が決まるということであれば、先読み数だけの対決になっているのでしょうか。だとしたら、人の思考がコンピューターに敵うとは思えないですね。

 

AIは論理的には優れていると思います。

では、AIが発達すると、私たちはどうなるのか、というところですが、あらゆる課題に対して、「正しいこと」を導くのでしょう。けど、その正しい選択に共感が得られるのか?となると、別問題だと思います。

 

タバコは身体に悪いけど、吸う人がいます。私も吸ってました。実際に身体に変化が現れて初めて、その正しいことに向き合うわけです。正しいことに感情が追いつくわけです。もし、正しいことだけが尺度になってしまうと、人の行動は並列化していくでしょうね。でも、そんなことにはならないでしょう。感情がそれを拒絶すると思う訳です。

 

コンテクスト・シンキングでは、論理と感情の共存を目指しており、そのためのコミュニケーション方法などを提案しています。組織の中で、プロジェクトの中で、いくら正しいことを進めても賛同を得られない、なんてことは当たり前のようにあります。そこに向く人たちの感情が論理を受け付けないからです。

そして、興味深いのが、この感情は、おそらく人が人と暮らすようになってから、ずっと変わっていないであろうということ。好きな人とは一緒に居たいし、嫌いな人とは一緒に居たくないとか、嫌なことはしたくないけど、好きなことはし続けられるとか。きっと、人に感情がある限り、正しいことだけでは生きて行けないんだろうと思うのです。

 

人間の論理を超えたAIを思うに、これからは特に、論理と感情の共存が求められているように思います。