コンテクスト・シンキング

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地域メディアの「お悔やみ欄」について真剣に考えたことがあるか?

地域メディアに関わると必ずお悔やみ欄の存在を知ることになるわけですが、これって何なんだろうなーと思っております。よくよく考えてみたいと思います。

 

よく聞くのは、「不義理がないようにお悔やみ欄は見る」というコメント。
生前お世話になった方に対してお礼を言いたいとか、お別れをしたい、とかそういう人はたくさん居ると思います。そうですね。そのためには亡くなられたことを知る必要があるわけです。そうなるとお悔やみ欄は見られるようになります。

 

自分が死んだことを考えてみると、仮にお世話をした人が葬式に来なかったとしてそれを不義理だとは思わない。残された人たちで楽しく暮らして行けば良いと思う。

 

家族が死んだことを考えてみると、そもそも誰とどんな関係だったかはよくわからないので、不義理とかも良くわからない。

 

友達が死んだことを考えてみると、お別れは言いたい。同級生名簿で回ってくることが多い。今はFBとかあるから便利。

 

お世話になった方が亡くなったことを考えてみると、お葬式に出る、お通夜に出ることも大切かもしれないけど、亡くなった方へ想いを寄せることは大いに有るし、ふとしたときに思い出したりしたいので写真とかあると良いかなとか思ったりする。

 

こうやって考えてみると、不義理ってよくわからなかったのだが、そもそもみんなが見ているメディアにお悔やみ情報が掲載されていて、それを知らずにいたら、周囲は「あいつは不義理だな」と思うかもしれないと思うに至った。

つまりは、地域メディアがお悔やみを扱うから、故人と関係のあった周囲の人から、あいつは不義理だ、みたいなことが言われるのではないか?、という独り相撲状態であることに気づいた。

 

ということは、地域メディアは「お悔やみを扱うことで不義理を生み出している」ということになる。それなのに、「不義理をしたくない人がお悔やみ欄を見る」と言っていることになり、この無限ループみたいな状態が非常に興味深い。そして、この内向きのループがムラ社会を作るきっかけになるのではないかと思うに至った。