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コンテクスト・シンキング

コンテクスト思考で課題解決!

課題の答えがある場所はいつも同じだ。

世の中にはたくさんの課題がある。

私たちの暮らしにあれば、地域の外、地域との間、国の中、国と国など。

異なる文化が交わると軋轢が生まれ、それが「課題」というカタチで表出する。表出した課題は、人々を困惑させたり、共感させたり、誘導したり、様々に僕たちの暮らしに影響を及ぼす。

 

課題が生まれるのは、異なる文化が交わった時だ。だが、それは日本人がどうこうとか、そういう次元の話しではなく、企業文化、地域の文化、コミュニティの文化などの、言い換えれば、特定の集合体の価値観と言っても良い。価値観とは自分が信じるものと言い換えたら、信じるものが違うから、相容れない、ということが起きるのだ。

 

では、自分と信じるものが違う人とは、どのように接するべきだろうか?

 

基本的には、受け入れる、受け入れない、無視する、の3つの反応となるのかと思う。

共感、容認、または、共感、そして、黙認は「受け入れる」。

拒絶だと「受け入れない」。

「無視する」というのは、なかった事にするわけだから、おかまい無しに振る舞うということになるか。

ただ、もう1つ、人間らしい反応があると思う。それが共存」や「共生」だ。人間が他の動物と決定的に違うところは、相手の存在を認めて、尊重することができるという点だ。

ちなみに、私にとって、これはものすごく大きな指針で、それが出来ない人に対しては、「品がない」とか「ハレンチ」という言葉を使っている。なぜなら人間的でないからだ。実は、世の中にある多くの課題は、この破廉恥さによって生まれていると言っても良いと思う。

 

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さて、先日、知り合いの宣教師と話しをしていて感じたのは、「西洋」と「東洋」の違いであった。これは人種の違いにも影響されていると思う。

 

アメリカ人である彼らは、6代ほど辿って行くと、自身のルーツは、アメリカの外になる。そもそもアメリカ自体が250年程の歴史なので、国がない。様々な国の民俗の血が入っていることを教えてくれた。ドイツ、フランス、イタリア、アイルランド、イギリス、インディアン、などなど。私など、6代辿っても、佐波東村の西小保方/東小保方周辺の出身であることは間違いないのだが、この違いは、その後の相違を生み出すには十分だと感じた。

 

アメリカ人である彼らにとっては、様々な価値観と交わって統一化されることが歴史の積み重ねだったのに対して、日本人は様々な価値観を容認して、共生することで歴史を重ねてきたと言えるだろう。

価値観の統一化を実現する方法は2つある。
1つは少数による多数の支配で、もう1つは個人の愛情の中で生まれたのではないかと思う。つまり、単一の国と民という二つの視点がそこに生まれる。個人を尊重する文化となるだろう。

一方、価値観を容認する、ということを考えてみると、生まれるのは、価値観を共有する集団であることがわかる。つまり、そこにはムラという視点しかない。故に日本人が調和を重んじるのも理解できる。ムラが大きくなれば国となるので、カリフォルニア州と同じ程度の日本に国が複数生まれることになる。この均衡が破れたのが戦国時代というわけだ。

 

宣教師とコミュニティケーションをしていると、すべての宗教に真理があるという考えを持っており、さらに自身の宗教について語るときは、「〜と、私たちは信じている」という言葉を使っていた。私は、これは共生の思想と言えるのかもしれないと感じた。国と民という単一の価値観が生まれるであろう歴史があっても、彼らの宗教には「共生」という考え方が入っている。宗教が彼らを導くのだ。ただ、私が接したアメリカ人の彼らと、アメリカ政府がどうなのか?ということとは関係ない。

 

一方、日本人はどうだろうか?

メディアがムラでなくなったので、共通の価値しか提示してこなくなった。本当なら、なんでも受け入れちゃうような民俗のはずだ。日本人の生活の中に根付いている宗教は、人の業ですら寛容に受け止め、なんでもOKみたいなところがある。だが、今の報道には「幅」がなく、ネトウヨと言われる人々に象徴されるようにネット内の風潮にも「幅」がないのだ。多様性を拒絶しているようにすら感じる。

そういえば、私もある市議について、アンケートサイトにて答えたことがあったのが、しっかりコメントしたおかげで、まるでサンドバッグのように袋だたきにあった(笑)。ただ、今となっては、その市議は今はいなくなり、ボッコボコに私を攻め続けた彼らの恥ずかしさを想像すると、破廉恥が過ぎてツラくなるくらいだ(笑)。

でも、その時に感じた「単一の価値観に向かって進んでいるような感じ」を、今のマスメディアを見ていても感じてしまう。これは、本来の日本人の歴史背景とは異なる思想ではないか、と感じている。

 

こんな風に、違和感や課題として表出した時には、すでに遅いのかもしれない。

でも、私たち自身の歴史を振り返り、他の国の歴史を振り返り、そうやって「なぜ、そうなったか?」を紐解いていけば、課題が生まれた原因は特定できることも多いと思う。組織でも、コミュニティでも、産業でも、何でもそうだ。このようにして、課題の原因を共有して対話することで、初めて、価値観の共生が成立するのだ。破廉恥になりたくなければ、この対話から逃げてはいけない。課題の答えを見つける近道はそこにあるのだ。