コンテクスト・シンキング

コンテクスト思考で課題解決!

共感を得るストーリーのつくり方

「共感を得るには物語」「説得ではなく納得が必要」など、いろいろなところで言われてる。確かにそうだ。私は、これらの手法は技術であり、習得可能だと思ってる。そう考えているので、センスでどうにか出来ると思っている方を見ると違和感を抱く。

 

ところで、この記事を見てもらいたい。

dentsu-ho.com

 

まず、正解の無い時代とあるが、本当にそうだろうか?

どこを正解と呼ぶかという議論もあるが、そもそもIT以前と以後では、背景が違い過ぎるので、現在においては、正解の質が変わったと考える方が良い。正解はあるのだ。ないわけが無い。

現代における正解は、この文中の言葉を借りるなら「納得解」と言って良いのではないだろうか。

実はここに広告業界の人たちが作ってきた広告の隠れた悪意とでも呼ぶものの存在が見え隠れしちゃっている。マスメディアの時代には、一方的に提示し、様々な手法で、正当性を錯覚させてきた、と言ったら言い過ぎだろうか。つまり、IT以前は「正解を一方的に押し付けることが出来た時代」ということになる。まぁ、真のクリエイティビティはそんなものではないことも感じてはいるけど。今は、視点が多くなったので、それが出来ないので、多様性を許容した「納得解」にしか、落としどころがない、というのが現実だろうか。

なぜ、正解がない時代になってしまったのか、という点において、インターネットの情報量の多さをあげていた。ウソがするバレるとか(笑。実は、一番変わったのはクリエーター本人なのではないかだろうか。

 

エンブレム佐野さんの件もそうだが、正直、私が学生時代に出会ったモノづくりの人たちに比べると、今の多くのクリエイターは端正な気がする。見たことがあるものは安心し、正しいように感じてしまうことをよくわかっているんだろうなと思った。一方で、崩壊して破滅的な方がいることも知ってる。

 

IT以前と以後で考えると、情報量は格段に現代のクリエイターの方が多い。ただし、情報に対する熱量、知りたいとか見たいと渇望する熱量で言えば、以前のクリエーターの方が何倍もあるのではないかと思う。そうなると、物事に対しての好奇心も高く、掘り下げるチカラも強い、結果、一人で探求していたとしても、多くの人が納得する答えに近づいていたのではないかと感じる。

一方、情報量が多いと注意が逸れるという性質もあるので、今のクリエーターの熱量は下がってしかるべきだと思う。それが端正に映ってしまう理由なのかもしれない。

 

 

さて、前置きが長くなった。

本題の「共感を得るストーリー」のつくり方であるが、実は、この話し合っている感じこそがストーリーの基本となるのだ。様々な立場の視点に置き換わりながら、話をすすめて行くことで、染み込むように入って来るし、共感も得られやすい。しかし、異なる立場に立ったままで、一方的に自分の立場を語られると、「騙されている」と、感情的に同意しにくくなるものである。

 

つまり、共感とは視点の集合体を、時間経過と共に持つことによって始めて得られるのである。

 

1つ例を示してみる。

ある市にゴミの焼却場を建設計画があがったとする。市やある場所に決めて、焼却炉建設を発表する。すると、その地域住民は、猛反発する。想像に容易い事例だ。だけど、市も食い下がる。新しい施設があればゴミ処理が可能になるばかりか、周辺自治体のゴミ処理も買って出ることで市の財政も好転し、住民サービスも向上する、と言う。住民はまっ二つにわかる可能性が高いが、市の財政をなぜその地域だけが支えないといけないのだ、とか別の議論が出てきて収集がつかなくなる。

 

けど、こういう順番であればどうだろうか。

ゴミの処理が出来ないんです。と市が悲鳴を上げ、住民の皆さんと話し合って解決策を見いだしたいんです。と市がアナウンスする。すると地域住民の中から、ゴミをどうしようか、という人が必ず出て来る(まぁ出て来るようにアナウンスする、というのが必要だが)。

ゴミ問題ワークショップをやって、どうやってゴミ処理できない問題を解決するかを話し合う。そもそもゴミの量と処理の量がどうなんだ、という話に展開。処理量を大きく上回っていることを示してそれをクリアするにはどうしたらいいかと投げかける。こんなこと、誰かに頼むか、自分でやるかしかないのだが、それすら行政からは言わない。他所でやったらどうなのかな?見たいな話が出てきたら、どこかの自治体にゴミの処理を依頼すると費用はコレ位です、みたいな話をし、その財源は、税収を増やすことでしょうか、みたいなところで止めると、ここで文句が出てくるだろう。その時に、もう一つの方法として、新しい処理施設を建築するという方法もあることを告げる。そして、どこにどんな施設を作るかはまた皆さんと話し合うとして、新設することについては合意してもらえるか?と聞いて、めでたく合意にたどり着く。

 

このように文章として長くなることからもわかるように、段階をおって、大義や目的を確認しながら、話を進めるとどうしても時間はかかる。けど、そのステップを経ることで、結果的に新処理施設建設についての合意を得ることは、可能になる気がしないだろうか。

 

細かなテクニックの詳細はまた別の機会にするが、ストーリー作りにおいて、共感を得るために一番大切なのは「起点」に他ならない。起点とはその物語を語る上での動機だ。この場合、「新処理施設の建設を建てたいという状況」である。その動機とは、「大義」に結びつかなければならない。これは「地域のゴミが処理できないという問題」ということになる。

大義を持ち続けることはブレない柱を持つことになり、その大義そのものの合意を得ることで、外野のノイズを共感者がはねのけてくれることもある。大義で共感を得ていれば、細かなことやちょっとした迷いは断ち切られ、その結果、大義に対して、更なる共感を与えることになる(あくまでも「結果的」にだ)。

本当に何かを成し得たいなら、大義の設定とそこに到達させるための仕立てが何よりも重要なのだ。時間はかかるが、論理と感情を融合させるには、時間を惜しんではいけない。

 

(2016.11.09 更新)

2015年の日本的選挙戦略について考えてみる。

テレビで統一地方選の結果を見ながら「選挙戦をどう戦うのが良いのだろうか?」とぼんやり考えていました。もちろん、文脈を読むことから始まるわけなので、これはコンテクスト・プランニングの演習問題みたいなモノです。

 

そこで、どこまで有効かはわからないのですが、日本にピッタリな選挙戦略があるのではないか?と考えてみました。

 

さて、ソーシャルメディアの歴史を語る上で外せないのがオバマさんの選挙戦の話しです。詳しくはこちらを。

matome.naver.jp

 

これが今から3年前。とにかく、若い世代へリーチすること、資金を調達することなど、明確な目的を持って運用されています。日本に転用した場合、法律の問題などがあるのかもしれませんが、地方の選挙でソーシャルメディアの活用が上手な人は少ないです。成功例があるので、真似してみれば良いのにな、と思います。

 

そもそも、大統領選にメディア戦略は欠かせないものなのですが、故に、ソーシャルメディアを使うのもごく当たり前のことだと思います。さらに、遡ってみましょう。

books.google.co.jp

 

特にメディアがチカラを持つ時代になってからは、広報戦略は選挙にとって大変重要な位置にあることがわかります。それは、いろいろなところを回って握手して、みたいな「草の根的」な活動の話しではなく、もっと大局を捉えた戦略の話しです。

 

 

そこで、考えみます。

まず、選挙戦において勝つためには「たくさんの票を獲得すること」が必要です。なのですが、この「たくさんの票を獲得する」ということをもっと丁寧に考えないとなりません。すごく当たり前のこと言いますけど、これを丁寧に実行すれば、かなりの確立で勝てるのではないかと思います。

さて、たくさんの票を獲得する=選挙で勝つ、とはどういうことかを丁寧に見ていきましょう。

1つは、「得票数」の問題です。

→他の候補者よりも1票でも多く獲得しないと勝てません。

そして、もう1つは、「投票率」の問題です。

→例年60%あれば良い方です。

つまり、現在の選挙を考えると、「選挙権を持つ60%の人のうちの何%を味方に付けるか?」によって、選挙の勝敗が決まる、ということになります。

 

そして、投票率と得票数から求められるのが、「得票率」です。これで、選挙の勝敗を言い換えれば、「得票率が最も高い人が勝つ」ということが成り立ちます。選挙で勝つためには、どの候補者をも差し置いて、自分の「得票率」を上げれば良いのです。

 

では、どうしたら良いのか?ですが、答えは、「選挙に行こう」と訴え続ければ良いのです。つまり、「選挙に行こうよキャンペ—ン」をします。もし僕が候補者の戦略担当だとしたら、コレやりますね。なぜ、選挙に行こうと訴えるのか?ですが、そのためには、そもそもなぜ、選挙に行かない人たちがいるのか、ということを考えないといけません。

 

選挙戦は、1週間くらい前から始まります。その1週間で自分をアピールするわけです。ですが、皆同じ感じです。違いがわからない。何をもって候補者の中から一人を選んで良いかわからなくなります。結果、政治に無関心になります。

 

そこで、「選挙に行こう」と言い続けるとどうなるか?を考えてみます。

そもそも、「選挙に行こう」という内容のメッセージであれば、選挙戦にはカウントされないのではないかもしれませんね。となれば、変な話し、今から次回の選挙を目指して実施しても良いくらいです。

 

さて、仮にAさんが、候補者だとして、以前から「選挙に行こう」をスローガンに活動していたとします。それゆえAさんは、選挙に行かない人と積極的に出会う必要がありそうです。その方達に選挙に行かない理由をちゃんとヒアリングしないとなりませんね。その結果、政治に対しての興味や関心の持ち方がわからないとか、候補者の主張の違いがわからないとか、彼の気持ちがいろいろと見えてくるでしょう。

そこで私は、選挙権を持つ人が投票したくなるよう、つまり、共感してくれるように、政治や市政の話しを、その方々にお話しし続けることなります。その結果、政治や市政に興味を持つ人が確実に増えたとしましょう。

 

こうなれば、もう当選確実です。

例えば、ある市の場合、先の統一地方選では、投票率は約6割で、最終的に勝った候補者の得票率は40%でした。投票数を仮に約2万票とします。得票率が40%であれば、総投票数は、5万票です。よって、この地域の有権者の数は、約83,300となります。仮に投票率を5%上げることができれば、総投票数は、4165票のアップとなります。で、この増えた分の約4200票は分散しません。「選挙に行こう」キャンペーンを行っていたAさんに入ります。おそらく4000票は獲得できるかと思います。勝った候補者の20%分を獲得できるのです。10%投票率を上げれば、勝った候補者の得票数の40%相当を獲得したことになります。「なぜ、Aさんに投票すると考えるのか?」と言われれば、「なぜなら、Aさんが政治や市政に興味関心を与えてくれたからです」とお答えします。

仮に自分が逆の立場にあったとします。あなたが政治に興味がない人物だとしたら?そして、政治について教えてくれる候補者がいるとしたら?、その人の話しに共感して、投票しよう!と決めた時、きっとあなたが選ぶのはその候補者ではないでしょうか?

つまり、「選挙に行こう」というのは、実は、候補者本人が言うのが一番理にかなっているのです。それは主義主張を発信するよりも私は重要なことだと思っています。私は、そもそも4割以上が選挙権を放棄していることをまるで無視しているかのように動いていく選挙という仕組みに違和感を覚えています。そのことから逃れず、政治に興味や関心が希薄な人たちとのコミュニケーションを実践していくことが大切です。それがうまく行けば、選挙という仕組みで、皆がハッピーになれる可能性が高まるのです。政治に関心を持つ人が増えれば、本当によりよく変わっていくのだと思います。

 

つまりは、選挙戦は「投票してくれない人にこそ働きかけるべき」なのです。風が吹けば桶屋が儲かる的な話しでありますが、大義のために訴える、実に、日本的な選挙戦略と言えると思います。

確実に票を取りたければ、誰も手をつけないエリアに一番最初に踏み込むべきなのです。このような戦略があってこそ、世の中を良い方向に変えることが出来るのではないでしょうか?そして、選挙の勝敗の要因とは、外にあるのではなく、自分がすべきことを実践できたか、にかかってくるのだと思います。

 

 

プランニングの重要性

うまく行く場合とうまく行かない場合、その差はどこにあるか?と言えば、プランニングに他ならない。

 

プランニングを行う上で大切なことは、以下を切り分けることだ。

・自分でないと出来ないこと/自分だから出来ること

・自分じゃなくても出来ること

プランニングする上で、自分以外の人、状況、環境は、変数という位置づけになる。この場合、状況によって「振る舞い」が変わる要素を指し、その振る舞いを如何にコントロールできるかが、物事を成功に導く為には必要なのだ。

 

自分以外の振る舞いについて考える時、よく言う「相手の立場になって考えてみろ」という言葉を思い出す。で、いろいろと考えるわけだが、わからないことが多かったりする。何故か。相手を知らないからに他ならない。

では、こう言われたらどうか?

「相手を自分に置き換えて考えてみろ」

そうすると、自分が突きつけた条件などを相手の立場になって聞くことが出来ないだろうか?そして、その時に、自分に置き換えてみて、答えが導き出されたことを忘れてはならない。そうなのだ。相手から見たら、自分は変数だけど、変数である自分も思考し、なんからの決断をしているのだ。

で、ここから「相手の立場になって考えてみろ」の真意に迫るわけです。

自分が考えて結論を出した時、どんなことを考えたのか。家族を優先した?社内の評価を優先した?目の前のお金を優先した?将来への投資を優先した?いずれかの決断をしたわけだが、その決断を促した要素の洗い出しをしなくてはならないわけです。

自分がまだ20代後半なら、将来的な不安を解消するためにも、投資を優先したい、と考えるかもしれない。自分が40代後半で、子供も家もあり、ローンもあり、返済しないといけないものも多いなら、目の前のお金を優先するかもしれない。

このように、自分の状況や環境が自分ならわかるから、自分のことは自分で判断するわけだが(その判断があっているかどうかはおいておく)、変数である相手のことがわからなければ、どのように判断するかもわからないのは当然のことなわけです。

 

つまり、変数とは言えで、ヒアリングをして状況や環境を聞いていけば、かなり高い確立で振る舞いを予想することができるわけです。その変数をすべて解消していくことができたら、自分が思い描いたようにすべての変数が振る舞い、自分は自分の役割を粛々と果たしていくだけで、物事はただしく進んでいくのです。

 

つまり、プランニングの重要性は、変数の特定とその変数の振る舞いをコントロールすることにあるのです。

課題の答えがある場所はいつも同じだ。

世の中にはたくさんの課題がある。

私たちの暮らしにあれば、地域の外、地域との間、国の中、国と国など。

異なる文化が交わると軋轢が生まれ、それが「課題」というカタチで表出する。表出した課題は、人々を困惑させたり、共感させたり、誘導したり、様々に僕たちの暮らしに影響を及ぼす。

 

課題が生まれるのは、異なる文化が交わった時だ。だが、それは日本人がどうこうとか、そういう次元の話しではなく、企業文化、地域の文化、コミュニティの文化などの、言い換えれば、特定の集合体の価値観と言っても良い。価値観とは自分が信じるものと言い換えたら、信じるものが違うから、相容れない、ということが起きるのだ。

 

では、自分と信じるものが違う人とは、どのように接するべきだろうか?

 

基本的には、受け入れる、受け入れない、無視する、の3つの反応となるのかと思う。

共感、容認、または、共感、そして、黙認は「受け入れる」。

拒絶だと「受け入れない」。

「無視する」というのは、なかった事にするわけだから、おかまい無しに振る舞うということになるか。

ただ、もう1つ、人間らしい反応があると思う。それが共存」や「共生」だ。人間が他の動物と決定的に違うところは、相手の存在を認めて、尊重することができるという点だ。

ちなみに、私にとって、これはものすごく大きな指針で、それが出来ない人に対しては、「品がない」とか「ハレンチ」という言葉を使っている。なぜなら人間的でないからだ。実は、世の中にある多くの課題は、この破廉恥さによって生まれていると言っても良いと思う。

 

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さて、先日、知り合いの宣教師と話しをしていて感じたのは、「西洋」と「東洋」の違いであった。これは人種の違いにも影響されていると思う。

 

アメリカ人である彼らは、6代ほど辿って行くと、自身のルーツは、アメリカの外になる。そもそもアメリカ自体が250年程の歴史なので、国がない。様々な国の民俗の血が入っていることを教えてくれた。ドイツ、フランス、イタリア、アイルランド、イギリス、インディアン、などなど。私など、6代辿っても、佐波東村の西小保方/東小保方周辺の出身であることは間違いないのだが、この違いは、その後の相違を生み出すには十分だと感じた。

 

アメリカ人である彼らにとっては、様々な価値観と交わって統一化されることが歴史の積み重ねだったのに対して、日本人は様々な価値観を容認して、共生することで歴史を重ねてきたと言えるだろう。

価値観の統一化を実現する方法は2つある。
1つは少数による多数の支配で、もう1つは個人の愛情の中で生まれたのではないかと思う。つまり、単一の国と民という二つの視点がそこに生まれる。個人を尊重する文化となるだろう。

一方、価値観を容認する、ということを考えてみると、生まれるのは、価値観を共有する集団であることがわかる。つまり、そこにはムラという視点しかない。故に日本人が調和を重んじるのも理解できる。ムラが大きくなれば国となるので、カリフォルニア州と同じ程度の日本に国が複数生まれることになる。この均衡が破れたのが戦国時代というわけだ。

 

宣教師とコミュニティケーションをしていると、すべての宗教に真理があるという考えを持っており、さらに自身の宗教について語るときは、「〜と、私たちは信じている」という言葉を使っていた。私は、これは共生の思想と言えるのかもしれないと感じた。国と民という単一の価値観が生まれるであろう歴史があっても、彼らの宗教には「共生」という考え方が入っている。宗教が彼らを導くのだ。ただ、私が接したアメリカ人の彼らと、アメリカ政府がどうなのか?ということとは関係ない。

 

一方、日本人はどうだろうか?

メディアがムラでなくなったので、共通の価値しか提示してこなくなった。本当なら、なんでも受け入れちゃうような民俗のはずだ。日本人の生活の中に根付いている宗教は、人の業ですら寛容に受け止め、なんでもOKみたいなところがある。だが、今の報道には「幅」がなく、ネトウヨと言われる人々に象徴されるようにネット内の風潮にも「幅」がないのだ。多様性を拒絶しているようにすら感じる。

そういえば、私もある市議について、アンケートサイトにて答えたことがあったのが、しっかりコメントしたおかげで、まるでサンドバッグのように袋だたきにあった(笑)。ただ、今となっては、その市議は今はいなくなり、ボッコボコに私を攻め続けた彼らの恥ずかしさを想像すると、破廉恥が過ぎてツラくなるくらいだ(笑)。

でも、その時に感じた「単一の価値観に向かって進んでいるような感じ」を、今のマスメディアを見ていても感じてしまう。これは、本来の日本人の歴史背景とは異なる思想ではないか、と感じている。

 

こんな風に、違和感や課題として表出した時には、すでに遅いのかもしれない。

でも、私たち自身の歴史を振り返り、他の国の歴史を振り返り、そうやって「なぜ、そうなったか?」を紐解いていけば、課題が生まれた原因は特定できることも多いと思う。組織でも、コミュニティでも、産業でも、何でもそうだ。このようにして、課題の原因を共有して対話することで、初めて、価値観の共生が成立するのだ。破廉恥になりたくなければ、この対話から逃げてはいけない。課題の答えを見つける近道はそこにあるのだ。

新年おめでとうございます。

昨年6月、コンテクストプランニングのブログを立ち上げ、半年ほどが経ちました。

 

10月からはコンサルタントをしていた会社の顧問となり、月に2日、企業内のチームと活動をしています。2ヶ月準備してきたアクションの評価はこれからですが、企業内のコミュニティケーションを強化するメリットは多いに感じているところです。

 

さて、今年は、活動の幅をさらに広げたいと思っています。

 

私はコミュニティFM局でも仕事をしていますが、そこで培ったのは、ラジオの技術でも、原稿の書き方でも、話し方でも、機材の扱い方でもありません。そこで学んだのは、コミュニケーションの方法でした。

 

なんとなく面白そうなことを、面白そうな仲間と一緒に行うことは誰もが理想とすることです。ですが、この理想の状況に到達できる人は、実感値で労働人口の4%以下です。まぁ、ほんと個人的な実感値ですが、25人知り合いが居たら、そのうちの1人くらいしかそういう状況でない、25の事業所があったら、そのうちの1箇所くらいしかそういう状況にはない、という印象なんです。特に地方だからかもしれませんけどね。

 

では、残りの96%はどうやって過ごしているのか?ということになりますが、コミュニケーションの課題を残しながら暮らしている、と考えます。離婚した時の私なんてまさにそうでしたけど(苦笑。

 

なので、そのコミュニケーションの課題をクリアすることが出来たら、どんなに楽しい毎日が待っていることか。と思うようになりはじめました。それで、はじめたのがコンサルタントの仕事です。

 

今年は、この技術を他の地域で実践したいと思います。

 

地方に長く暮らすと、他人の成長が見えないものです。自身が成長したいと思う故に、他人の成長や能力を見るスキルは、必然的に上がってきたような気がします。そして、著しく変化した私にとっては、いつのまにか今の場所の居心地が変わっていました。

 

私が最も信頼する方が話していたことを思い出しました。

 

「この地域は本当に田舎者だ。どん底を見ない限り、上がる要因はない。」

 

2年前に言われたこの言葉が、今は手に取るようにわかります。課題はコミュニケーションです。でも、それを回復させるチャンスは、あと1〜2年くらいは回ってこないでしょう。これは誰が悪いとか、何が原因とか、そういう次元の話しではなく「そういう流れ」なんです。だからこそ、その時のために成長しておきたいと思います。そのためには、与えられたチャンスを活かして、他の地域でいろいろと実践してみたいと考えるようになったのです。

 

なかなか辛辣な内容となりました。自分自身の正月気分にカツを入れた次第です(笑。

さてさて、そんなこんなで、今年も1年間宜しく御願します。

 

*ご相談は、無料で使えるミラサポの専門家派遣をご利用くださいませませ。