コンテクスト・シンキング

コンテクスト思考で課題解決!

地域とアートの良好な関係とは?

こんな記事を見つけた。

コンテクスト・シンキングで言えば、「鳥の目」での分析というところだろうか。地元桐生で開催されていた桐生再演の実情を垣間みてきた「虫の目」も取り入れて考えてみたい。

zasshi.news.yahoo.co.jp

 
私が暮らす桐生にも以前、「桐生再演」というアートフェスがあった。
ただ、このイベント、実際には、作品を作る過程も非常に面白かった。
 
街の中にアーティストが入ってきて、その場所の文脈に即した作品を作る人もいれば、いつも通りの作品を作る人もいる。面白いのは断然前者である。その場所でないと生まれない作品だからこそ、その場所で見る楽しみがあり、そのアーティストが他の場所で作品を作れば、その作品を見に行く価値が生まれるから。それが地域とアートが結びつく最大の魅力だと今でも思っている。
 
桐生再演では、アーティスト本人が場所探しから行っていた。
自分で見つける場合もあれば、紹介してもらう場合もある。ただし、基本的に交渉はアーティスト本人が行っていたらしい。よって、場所を貸してもらえるかどうかはアーティスト本人の交渉次第ということになる。
 
街の中には必ず、“時間が止まった場所”がある。そして、アーティストが目を付ける場所はだいたいそういうところだ。その場所にアーティストが入っていくことで、家主の地雷を踏むこともあったとのこと。それでもめげずに交渉したり、決裂したり、そうやって、いくつもの場所の空気が入れ替わっていく。家主によっては、その後積極的にアーティストを支援したり、場所を提供したりなんてことも起きていた。
 
関係者の話しでは、モデルはニューヨークのソーホーだったらしい。

治安が悪く家賃が安かった時代、そこにアーティストが暮らすようになった。するとカフェが出来、それ以外のお店も出来、そして、アーティスト以外の人たちが暮らすようになり、止まっていた時間が動き出したという。もちろん、街の時間が動き出すのはそれだけの理由ではないだろう。
 
メセナの文脈でアートフェスを捉えるなら、企業の体力次第ということになる。今は、そこに行政も絡んでくるから「地域おこし」的なところでアートが利用されるようになる。
 
この15年ほど、地域に関わって感じたのは慢性的な疲労感だ。これは取組がツライということではない。理由は、「地域おこし」には終わりがないためだろう。どこまでやれるのか?は個人の状況に委ねられる。私は、改めて、自らゴールを設定して取り組もうと考えている。今は、その準備中。

地方都市のアートフェス、地方都市の音楽フェスも同じで、地域おこしをうたうと終わりがない。その結果、メセナの流れに行政も参加して、流入人口とそれに伴う経済効果等を基準に成功と失敗を判断するようになっていく。すると人を呼べるアーティストが必要になり、必然的に著名なアーティストを招致するようになる。
 
桐生再演のケアをされていた方は、Artist in Residentsの頭文字を取って、AIRプロジェクトと言っていた。”アーティストが滞在し、作品作りを通して、時間の止まっていた場所の空気を入れ替える“、というコンセプトだったが、地方都市でアートフェスが増えたこともあり、今はおやすみ中。

桐生再演では、アーティストが場所と対話し、止まっていた場所の空気を入れ替え、作品作りを通して地域の人たちと交流していた。地域の中でアートが担う役割が非常に明確だった。そうやって再生された場所は、数十箇所はある。その中には、テナントとして復活した場所もある。この数年、桐生市街地への出店が増えているが、そのきっかけは桐生再演だと思っている。
 
桐生再演は、朧げな道筋の先にあったゴールに、着実に到達したのではないか。地方都市のアートフェスが担う“地域おこし”のゴールを、今一度、再考した方が良いのではないか?